汚いと言えない

「私もマスクつけましょうか?」
「ううん、外して。俺はこのままでいいから」
男は私に手伝われて全裸になった。顔にだけマスクを残したまま。

コロナ禍の始まりのころ。客足がぐんと落ちて、それでも来る男たちの中には、自分だけマスクをつけたままプレイしたいという客もいた。
マスクをつけたままの客にいつも私は「私もマスクつけましょうか?」と尋ねたけれど、聞いたところで私はつけさせてもらえないことが多かった。
客からすれば、自分の身は守りたいけれど、買った女の顔は見たいし、口でのサービスを享受したいのだろう。

私もマスクつけたいです、とは、決して言えない。“あなたから感染するかもしれないと私は思っています”というメッセージを伝えてはならないから。
客を「汚い」と思っているそぶりを見せてはならないから。
キスしなくていいし、ハァハァと吹きかけられる臭い息もいくらか軽くなるから、どちらかと言えば楽だ、と思うようにしながら、裸マスクの男に対応した。

ただでさえ客入りが厳しいのに、一度でもアンケートで減点されたら立ち行かなくなる。
だからいつも客の身体を舐めるときは、汚い臭いと思いながらも顔に出さないようにして、なるべく多く唾を出して、飲み込まないように吐き出し続ける。露骨に吐き出していると思われない様に、興奮を煽るテイで垂らしてみせたり、こっそりシーツやタオルに吐き捨てる。
一方で客は、だいたい最初より帰り際のほうが、念入りにシャワーやうがいをして帰る。
私はそれにひとつひとつ傷つく暇もないほど困窮していたから、気にならないと思っていた。

「キスしよう」
時間ギリギリになって、裸マスクの男が迫ってきた。
「でも○○さん、コロナ気にして……」
「マスク越しにすれば、大丈夫」
男はマスクをしていて、私はマスクをしていない。

【マスクの表面は不潔なので触れないように】
あのころ散々、テレビで言われていた事が頭をよぎる。
“大丈夫なのはお前だけだよ”とは、言えない。汚いと言えない。迷っているうちに、裸マスク男にキスをされた。

ざらっとした不織布越しに生暖かい吐息を感じた。

そのマスクも何時間、どこを、誰の飛沫を浴びたかもわからないマスクを押し付けられて、ーー汚い! 汚いと思った私は、“汚い”と言えない私は、それでもにっこり笑って、時間内にホテルを出られる様に男にパンツを差し出した。

「あっ、もうこんな時間! ○○さんといると仕事だって忘れちゃう! 楽しかったぁ!」
たった今時計を見たフリをして、心にもないリップサービスを、愛想笑いをしながら並べ立てた。

内心の嫌悪感や、時間への焦りを隠して、アンケートで減点されないように必死だった私は、
あの時、“汚い”と言えなかった私は、
毎月の支払いと日々の稼ぎに焦って、そんなことに傷付きもしていないと思っていた私は、
本当はひとつひとつのことに、傷付いていたのだと、2年半が経ってようやく思い出している。

別に身体は売りたくなかった。

収入の不安定な本業の傍ガールズバーで働いていたが、生活は厳しかった。

『パパ活』という言葉がネットを歩き出した頃。『交際クラブ』に登録すれば食事デートでお金を稼げると聞いて、水商売の延長線上だろう、生活の足しになると思いネットのスカウトに話を聞きに行った。

スカウトの男は喫茶店の席で二言三言雑談を交わすと「ローンを組んで豊胸してから風俗やると稼げますよ」と突然言い出した。「クリニックも紹介します」その時の私は豊胸も風俗もまったく考えてもいなかった。驚いて私は「いや、風俗までは」と断った。スカウトは「交際クラブでも、大人の関係(性行為)アリじゃないと中々オファー来ないですよ」と私を一度突き放し、登録するだけなら、と電話を取り出すと、面接の予約を取り付け始めた。そのまま交際クラブの事務所に行くように指示され、向かった。プロフィールを書かされた。写真を撮られ、スリーサイズ、胸のカップ、交際タイプーー初めて会った男性とお金次第でどこまでできるかーーを記入した。私は食事デートのみを希望し、登録したが、実際にクラブからのオファーは来なかった。ネットの情報を探っていくと、ブランディングされた『パパ活』の実情は、飛び抜けて容姿が優れている女性でもなければ『大人の関係』を結ばないと稼げない、という事がわかった。

あのスカウトと会ったのはそれきりだったが、彼の言葉は遅効性の毒のようだった。“男好みの身体に改造しろ、お前に価値はない、もったいぶらずに身体を売れ”というメッセージが、少しずつ私自身を侵していくことになる。

生活は依然として厳しく、次に私は『メンズエステ』に飛び込んだ。別に身体は売りたくなかった。風俗ではないし、お客からの接触も禁止だ。面接に行くと強面の男が『アレ着て施術してもらうけどできる?』とベビードールを指差しながら言った。生活費のことを考えて、首を縦に振った。マッサージは一生懸命に勉強したが、客がメンズエステに求めるような『際どい』施術は苦手で、中々固定客を掴めなかった。

身体を触ろうと必死な客、突然マスターベーションを始める客、背中に跨って指圧している最中にクネクネしながら「どう? 気持ち良くなっちゃった?」と聞く客(気持ち悪い)を笑顔でいなす。最初はガールズバーよりも稼ぐ事ができたが、新人期間が過ぎると、客づきが悪くなりだした。

事務所で電話を取るスタッフの会話を聞いていると、私を薦めようとするスタッフが「胸は大きい方ではないですが、マッサージが上手で良い子ですよ」と言っては断られているのが耳に入った。スカウトの言葉を何度も思い出した。

もっと胸があれば、もっと性を売れば。

別に身体は売りたくなかった。

けれど、自分の身体を商品として考え始めていた。

その後、本業の資金繰りに失敗した時、真っ先に浮かんだのが『風俗』の2文字だった。私はもう、とうとう風俗に行くしか脱する術がないと考えた。

美容クリニックで100万以上のローンを組み、胸にシリコンを入れた。

元の身体では受からなかったであろう都内最高級の風俗エステの面接に行き、採用された。お客から触られることはない、ただ今までの行為を裸で、手で射精介助もするだけだと自分に言い聞かせた。

講習員の女性は「客に触らせる時は、あなただけ特別だよ、って言ってね。できるだけヘルス(粘膜接触)行為が出来た方が売れるから」と私に説明した。

後戻りはできなかった。

私は別に、身体を売りたくはなかった。